私たちは、話す人の価値観や生き方を理解し寄り添うために「傾聴」します。「傾聴」は、話す人の心を穏やかにし、その人自身が自分の考えを整理することができます。同時に傾聴する人自身も話し手のさまざまな考えを聴くことで話す人への理解が深まります。家庭や地域の中で、大人も子どもも温かい心で受けとめられる環境を求めています。つまり、「傾聴」を基本としたコミュニケーションが必要とされているのです。「傾聴」の学習と実践は、私たちの生活に潤いと安心感そして自己肯定感をもたらします。
「若者を育てるための傾聴」
講師:今木 康彦(北海道総合福祉研究センター副理事長)
「発達障害って?~わかって欲しい私たちの願い」
講師:鎌田 稔 (メンタルケア札幌事務長・PSW)
「傾聴学基礎講座~本音を引き出し、信頼関係を築くコツ」
講師:五十嵐 教行 (北海道総合福祉研究センター理事長)
よく聴く言葉だ。危機的状況に陥った人に向けて励ます意味で使われる言葉だ。またこの言葉は、自らが逆境に立たされた時に、へこたれてしまわないようにと自らを奮い立たせようとして使う言葉でもある。“大丈夫、ぜったい大丈夫、あなた(自分)なら乗り越えられる”と言い聞かせようとしているのだ。長らく筆者はこの言葉に何の違和感も感じることはなかった。
この言葉は、“今、目の前にあるこの困難な状況は、神様が与えた試練なのだと受け止めていこうとする考え方で、それゆえ、それは決して越えられないモノなんかではなくて、絶対越えられるモノなのだ”ととらえる。だから、それを信じて「がんばって取り組んでいけよ」という願いが込められている究極の応援言葉だ。この困難な状況は神様が与えてくれた試練で、しかも乗り越えられるようにと神様が調整しているのだからね、ということなのだ。神様って、なんと慈悲深くて思いやりのある存在なんだろう。
筆者は神様を日頃から身近に感じて生活しているのだが(仏様も同様に)、ある時、ふと考え込んでしまった。はたして神様は私たちに試練などいうものを与えるものなのだろうかと。神様が与えてくれるのは御利益だ。試練なんかを与えるのだろうか。筆者が神様に手を合わせる時、どうかこの私に試練を与えてくださいと祈るという発想は筆者にはない。たとえ試練を与えてくださいと願ったところで、だけど私が越えられる程度の試練で頼みます、などという都合の良い願いごとなのである。だったらいっそのこと、試練なんか与えずに、夢のような良いことばかりを与えてくださいと祈りたくなる。
「苦しいときの神頼み」という言葉がある。この言葉ほど強い願いが込められている言葉は他にはないのではないかと考えている。多くの人は、この言葉が浮かんでいるとき、神様に強く祈っているはずだ。あらためて、筆者はこの言葉について、神様の力を信じ切っている証拠だと感じざるを得ないのだ。いつだって私たちは「神頼み」だったのではないだろうか。たしかに努力はする。しかしその結果について人知は及ばない。そもそも努力できる環境(天変地異がないとか)が整えられていること自体、すでに自分に与えられている。試練があろうとなかろうと、今日一日、当たり前の生活を当たり前のように送れるかどうかだって、最後は神頼みなのだ。たしかにこの言葉に込められた願いは、今あるこの苦しみから自分を救ってほしい、解放してほしいという願いの言葉だ。ならば、神様は安寧を与えてくれるだけで、わざわざ試練を与えるわけがないと考えるのだ。
そもそも、神様は私たちを救ってくれるのだ。神様はどんなときも私たちを見捨てることはないと思うのだ。むしろ見捨てるのは私たちの方ではなかったか。「神は我を見放した」と言うけれど、むしろ「見放した」のは私たちの方で、最後まで信じ切れなかっただけにすぎず、勝手に見限っただけにすぎないと思うのだ。
「信じる者は救われる」という言葉を大切にしたいなぁ。
先日、弁護士と話しをする機会があり、その際にその弁護士から「死後事務」というコトバを耳にした。「死後事務」とは、文字通り自分が死んだ後に行わなければならない事務手続きのことだ。人は必ず死ぬ。この事実は誰もがわかっている。ところが、健康な人、ひとまず健康だと自認している人の多くは、自分が明日死ぬかもしれないとは考えていない。“ いつかは絶対死ぬんだけどサ・・・でもサ、すぐには死なないよね、きっと。確かにサ、その時の準備はしておかなきゃいけないけれどサ、まあ、そのうちしておけばいいよね” と考えて生活しているのではないだろうか。そして、それは自分の親の死についても同じように考えているように思う。ゆえに自分や親が死んだ時については準備していないから、一抹の不安がある。筆者も同じだ。死後の準備は少しずつしか進めていない。だから、まだお迎えに来ないでねと神社仏閣その他関係各所で手を合わせて切に願っている。
さて、「死後事務」について考えてみよう。どういう手続きがあるのだろうか。家族がいればその家族がするわけだが、家族がいない場合は第三者がすることになるので、前もってその第三者を誰にするか決めて、依頼しておく必要がある。
「死後事務」の主なものは次の通りで、カッコの中は本人にしかできないことだ。それをしておけば、第三者は本人の意思に則って粛々と事を進めてくれるのだ。
ところで、筆者は1 0 年ほど前からこんなことを考えていた。それは自分のパソコンなどに入れたデータの消去についてだ。家族に見られたら「マジやばい! ( 汗) 」というデータもあったりするのではないか。そして、それは誰にも絶対知られないように速やかに消去してほしいと願うのではないか、ということだ。だから、その消去は、死後の自分の尊厳を守るための必要不可欠なことなのではないかと考えたのだ。データ以外にも何かそのようなブツもあるかもしれない。筆者はこのことを、『死後の福祉』だと考えている。
当センターでは、これらのことも含めて、「死後事務」について新規事業として何ができるのか検討してみたいと思っている。
だって、筆者も死後の自分の尊厳を守りたいので・・・・・テヘ。
①初級講座 | 1.『傾聴』の大切さを理解する |
②中級講座 | 1.傾聴の意義と目的 2.傾聴の基本的技法 |
③上級講座 | 1.傾聴の基本 2.傾聴の応用的技法① 3.傾聴の応用的技法② |
④実践講座 | 1.傾聴を実践するための基本的理解 2.日常生活における傾聴の実践 3.私たちの暮らしと傾聴 |
⑤傾聴士養成講座 | 1.自分自身の「聴く時の課題」と自己覚知の理解 2.寄り添う聴き方(うなずき、あいづち、繰り返し) 3.沈黙への対処法 4.「語る」ことの意味と「聴く」ことの意義 |
20 1 8 年に大阪市内で聴覚支援学校に通う女児( 当時1 1 歳) が重機にはねられて死亡した。その事故で将来得られたはずの「逸失利益」注1の算定について争われた判決が今年の2 月2 7 日に大阪地裁であった。
地裁は、逸失利益を平均賃金の「8 5 % 」が相当であるとして、重機の運転手側に約3 7 7 0 万円の賠償を命じた。この判決では、難聴によってコミュニケーションに制限があるものの、この女児には学習面において支障はなく、様々な就労の可能性があったと認定、さらに音声認識アプリなどで難聴の影響も小さくできるとし、逸失利益を聴覚障害者の平均収入( 平均賃金の約7 割) よりも高く算定したとのことだ。訴訟では、遺族側は「健常者と同水準」、被告側は平均賃金の「6 割」を主張。
遺族側は判決後、「1 5 % を削られたのはおかしい」として控訴した。
障害がある場合では、逸失利益は低く算定される傾向があると言われており、その他にも長期間失業していた人やパートなどの非正規雇用者の場合も算定額は低いとされている。しかしその一方で、算定額が膨大なものになるケースもある。
それは、優秀で将来を嘱望されていた若者や医師などの専門職として高収入があった人などである。
さて、この算定額の差についてどのように理解すべきなのか。逸失利益の本来の意味から考えれば、このような算定額の差が生じるのは仕方がないし、算定の計算方法ももっともらしいと思う。したがって、この差は“ 差別ではない” となるのだろうけれど、それでも・・・・と、これは当然の格差だと言えるのかということに引っかかるのだ。
極端な事例を挙げて考えてみたい。逸失利益がゼロという算定が出る人についてだ。一般的に、重度知的障害児などの場合、就労は困難とみなされ、将来的に収入が得られる蓋然性がないとして、逸失利益を認めないとしてきた経緯がある( 軽・中程度の知的障害は、最低賃金などによって算定された逸失利益が認められている) 。筆者には、こうした考え方は、まるで稼ぐことができない人の価値はゼロだと言われているように感じるのだ。
では、どうしたらよいか。筆者の宿題がまた一つ、増えた。
注1 ) 逸失利益とは、「債務不履行、不法行為がなければ得られたはずの利益」のことで、本来得られるべきにもかかわらず、失われた利益ということである。本人以外に責任があるとする死亡や傷害に起因する損害賠償に含まれるもので、死亡事故の場合、基礎収入に就労可能年数をかけ、生活費として一定割合を控除して算定される。基礎収入とは、就労していればその収入額で、学生などの未就労の場合では、平均賃金を用いて算出することになる。また逸失利益が認められるためには、相当程度の確率で収入が得られる確実さが必要とされている。
高齢者をターゲットにした特殊詐欺といえば、「オレオレ詐欺」だ。子どもや孫などの親族を装い「集金した金を落とした」「会社の金を横領してバレた」「交通事故を起こして訴えられた」などと偽り、現金を振り込ませる詐欺である。警察庁によれば、特殊詐欺の被害者は、70歳以上が5割以上、60歳以上では約8割を占めている。地域社会の中でつながりが希薄な一人暮らしの高齢者が狙われている。ところで、筆者はオレオレ詐欺のニュースを目にするたびに、被害者に対して「親の愛情」の深さを感じているのである。
「オレオレ詐欺」は、相手が息子になりきって電話してくるのだが、オレオレ詐欺に娘が登場してくるケースを筆者は知らない。きっと娘は、会社のお金を横領することもなければ、怪しげな事件に巻き込まれることがないと誰もが信じているのだろう。“娘”ではななく、“息子”というところにこの詐欺事件のカギがあると考えている。
さて、とかく男の子はおバカな生き物であると、世の母親はなかばうれしそうに嘆く。幼稚園のカバンからおびただしい数のミミズが出てきたとか、ビー玉を鼻の穴に突っ込んで取れなくなったとか、いつのものかわからない弁当箱がカバンから出てきたとかといったエピソードは事欠かない。筆者もおバカな男の子だったと思う。
おバカな生き物ゆえに、母親が注ぐ愛情は深く、そして純粋だ。自分が守ってやらねばという強い気持ちが醸成されていくのだろう。あれから息子は成長し、会社でもそれなりの地位に就いた。結婚をして家庭も築いた。そんな息子の姿に安堵しながらも、どこかおバカだった頃の姿が消えないでいるのではないか。母の中では息子はあの頃のままなのかもしれない。ある日電話が鳴った。電話の向こうで「オレだよ。オレ」とぶっきらぼうだから、思わず息子の名前を言ってしまう母。電話の向こうで涙声でしゃべっているから、せっぱ詰まっているとすぐにピンときた。これは一大事だ。会社にも嫁にも知られてはいけないのだ。よしわかった。心配するな、この母に任せておけ!と感情が高ぶってくるのだ。“この私が助けなきゃ”という気持ちが体中を駆けめぐるのだ。あり得ない話であるのに、信じ切ってしまうのだ。だって、息子はあの息子なんだから。息子はいくつになっても、おバカな生き物なんだと思うがゆえに疑うことができない。むしろ、窮地に立って困ってしまった時に、この母を頼ってきたことに“よしよし”と思ってしまうのだ。
こんな事件があった。女性客(78)が1000万円の定期預金の解約に来た。窓口の女性職員から使途を聞かれても、女性は「言えない」と最初は答えたものの、「息子が会社のお金をなくしたから」と説明。「詐欺ではないか」と諭されたが、女性は「詐欺でもいいから解約してほしい」と食い下がった。そのやり取りを聞いていた別の女性職員が機転を利かせて、データを調べて女性の家族に電話。家族が女性を説得した、というものである。
解約をさせまいとした2人の女性職員の関わりは、まさにファインプレーだと思う。そして筆者は思うのである。「詐欺でもいいから」と訴えて、必死で解約をしようとするこの女性は息子を助けたい一心だったのだということを。それは、母の一途な愛情の表れだ。
だからこそ、この詐欺の犯人に腹が立つ。卑劣なやり口を絶対許せないのである。
自分が死んだらどうしてほしいかということについて考えてみたい。新年早々、縁起が悪く感じられるかもしれないが、おつきあい願いたい。我が身の死とその後の我が身の取り扱われ方は、自身にとってすごく大切で重要なことであるが、残念ながら自身が関与することは難しい。多くの人は、おそらく自分のお式を自身でプロデュースしたいのではないかと思う。筆者は以前から友人や研究センターのスタッフに特に自身の通夜のあり方について説明し、そしてそれを実現してもらえるようにとお願いをしている。
さて、筆者は死んで、自宅の神棚の前で寝ていると仮定する。直後の筆者の枕元には、ご飯がお茶碗に山盛りでまんまるになってよそってある。そして割り箸がそのご飯のど真ん中にまっすぐに突き刺さっている( こうした作法( ? ) は私の出身地ではフツーだが、どうやら全国共通ではないようだ)。まずこれがいやなのだ。なぜ白飯だけしかないのか、しかも割れていない割り箸のままでは食べられないではないかと思ってしまうのである。
だから筆者は彼らに頼むのである。箸は割って茶碗の前に置いて欲しい、そしておかずはぜひともつけて欲しいと。すると必ず彼らは「何のおかずが良いのか」と訊いてくれる。
そこで私はいつも考える。死んだ後であっても、ほんの少し前までは生きていたわけだから、やはり食べ残してあったおかずを気にしているのかもしれないしナーと。だけどせっかく死んでから最初にいただく食事なんだからと考えると、けっこう悩む。考えるたびにおかずの内容が変わるので、自分はけっこう食い意地が張っているのだと感じる。現在はタラコとすじこの2 大魚卵を基本として、牛すじの煮込みをリクエストしたい。
次に、斎場にて通夜の儀式が始まる。お式が始まるまでの間、会場には私のラジオ番組をB G M として流してもらいたい。その際にはいつの放送であってもかまわない。
通夜の儀式が終わると、参列者のための食事やお酒が振る舞われる。その時が問題だ。
筆者は祭壇の一番下で、静かに棺桶の中で横たわっている。祭壇の前では皆が酒を飲んで話をしているわけだ。筆者の弔いのために集まってくれたのに、筆者はその話しの輪の中にはいないのである。
時々、短くなったろうそくを新しい物と取り替える時に祭壇に来てくれるけれど、やはり寂しい。実はここが肝心なお願いなのである。ぜひ叶えて欲しいと念を押して伝えているお願いなのだ。それは、祭壇から棺桶を出して皆の輪の中に加えてもらえないかという願いである。筆者だって楽しみたいのである。久しぶりに会う人が必ずいるはずだ。挨拶だってしたいし本日のお礼もしたい。もちろん、つもる話が筆者にもあるのだ。朝まで飲もう! と言いたいのだ。途中で帰宅する人が出てくれば、見送りはしたいし、その人が家にたどり着くまで、事故なんぞに合わないようにと無事を祈りたい。
今日という日は、あの世での私にとっての最初の最良の日なのである。
ところで、その輪の中にある棺桶なのだが、弔問に来ていただいた方に、この棺桶に直に私への寄せ書きを書いてもらいたいのだ。きれいな布につつまれてしまうよりも、いろいろ色のマジックで書かれた寄せ書きでにぎやかになった棺桶とともに、あの世へと続く扉の向こうへ向かいたい思うのである。あっ、棺桶の中には花ではなくて、私が愛用した広辞苑のページを1 枚破って入れて欲しい。あの世でも執筆したいから。
最後に。筆者からの提案を一つ。
毎年の恒例行事として年に一度、家族がそろうような日に自分のお式について話をしてはいかがでしょうか? 逝く人も送る人も納得のいくお式を手に入れるために・・・・・。
ここでしか聞けないテクニックを講義します!
ズバリ、ムダを省いた「インプット」する暗記行為とムダなく「アウトプット」する解答行為をセットでとらえられるように講義します。