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センターニュース No.7

「ばれなきゃ」いいのか

理事長 五十嵐教行

「認識後も出荷続ける」ということばからピンと来る人はきっと多いことでしょう。今年の2月下旬頃から始まった浅田農産の鳥インフルエンザ感染についての記事の見出しですが、感染していることを認識していながらも、腸炎ということで出荷し続けたあの事件です。私たちの生活を支えている食品に関しては、とにかく安全なものを安心して口に入れたいという願いが誰にもあります。

ところが雪印乳業の牛乳中毒事件やミスタードーナツの肉まん法定外添加物混入、京都府の業者による半年前の卵の出荷など、生産者側の歯止めのかからないモラルの低下した事件が相次いでいます。“こっそり自分たちでうまいことやってしまおう”と、つまりばれないことを前提にやらかして、しかもこれらの事件の多くは、そのことが外部に漏れないようにと関係者に隠蔽を強要(なかには脅迫めいたり)していたりしています。発覚するまでの間にその内容をエスカレートさせていることもしばしばです。

これら一連の状況が報道される度に、私たちは強い憤りと高い危険性を感じざるを得ません。消費者の安全よりも自分たちの利益を守ろうとする彼らに、食品を扱う業者としての信頼性はまったくありません。

昨年末に、衝撃スクープ映像なんとか!という番組を見ましたが、その中で、アメリカのベビーシッターが赤ちゃんを虐待しているというスクープ映像(と言っていいのかわかりませんが)がありました。隠しカメラで撮影されたその映像は、台所で赤ちゃんが専用のいす(ベルトでしっかり固定されているもの)に座っていて、傍らにベビーシッターが赤ちゃんの面倒をみています。ところが次の瞬間、その赤ちゃんが泣きだすと、パシッと赤ちゃんの頭を何度も手のひらで叩くベビーシッターの姿が映し出されました。さらにそのベビーシッターが赤ちゃんの前を横切るたびに、赤ちゃんの頭をパシッと叩いて行く映像が続きました。横切るたびにパシッと叩いて行くわけです。これらの光景だけでも十分に驚く内容でしたが、もっとビックリしたのは、カップに入れたコーヒーをスプーンでかき混ぜる時に、なんとその赤ちゃんの頭の上でかき混ぜているわけです。わざわざ赤ちゃんの頭の上でかき混ぜているのです。カップの下でその赤ちゃんはいつものように手足を動かしています。

この一連の映像は、この赤ちゃんの親が自分の子どものからだにあざがあることに気がつき、何か変だと思って隠しカメラを設置したところ、ベビーシッターのパシッ、パシッ、と叩いているところが撮れたというものでした。そもそもベビーシッターは、そういうことを絶対にしないという前提条件にたって、ベビーシッターとして雇われているわけです。ベビーシッターがいるから、親は安心して外出できるわけです。ところが、そんな簡単にパシッ、パシッと叩くような危険性のある人だったら、その人にベビーシッターを頼みません。赤ちゃんはしゃべったりすることができませんから、このような在宅での虐待の事件というものは、隠しカメラでも設置しない限り、その中でパシッ、パシッとやられていたとしてもなかなか誰にもわからないわけです。つまりばれないということです。

赤ちゃんは親に何も伝えられない(自分が何をされているのか認識もしていない)から、その意味でも完璧な密室の中で、これらの行為が繰り返されていたことになります。この密室という状況は至る所に存在します。もちろん福祉の世界にだって存在します。

しかし、「密室だから何をしても許されると考える人が仕事をする」わけがないと多くの人は信用しています。だからこそ任せられるのです。もしかすると一度も疑うことなく、初めから信じ切っているという人もいるかもしれません。

近年は、このような信頼を大きく裏切る事件が後を絶えないということは冒頭で述べました。事件を起こした人たちはそれ相応の罰を受け、社会的な制裁も受けています。事件が発覚してからの報道を目にすれば、おそらく自分の行為が明るみに出たら大変なことになるということは考えられるものなのですが、一向になくなりません。

なぜでしょうか。職業人としてのモラルが欠如しているからだと言っても差し支えないでしょう。そこには自分の行為を最初から信頼している人たちの存在が抜け落ちているのではないかと考えられます。自分の考えの如何によって、誰かの生活に大きな影響を及ぼしてしまうといった事の重大さにいつも気づけるかどうかだと考えます。

私たちはそれぞれの学びの過程で、基本的人権を守るということを学んできました。守るためにどうすべきなのか、私たちは学んできたのです。基本的人権の侵害があってはならないのです。私たちの信頼を平気で裏切る人たち、多くの事件を、私たちはどのように理解し整理するべきでしょうか。また、どうしてよいかわからず、結局のところ「泣き寝入り」をしている人たち、あるいはさせられている人たち。そのような人たちを私たちはどのように受け止めていけばいいのでしょうか。それぞれの立場で、私たちは「今、ここで」何をすべきなのでしょうか。私たちだからこそできる何かを見つけだし、動き出していくことも一つの使命なのかもしれません。

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