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センターニュースNo.40

巻頭言

『神様は乗り越えられる試練しか与えない』と言うけれど・・・

よく聴く言葉だ。危機的状況に陥った人に向けて励ます意味で使われる言葉だ。またこの言葉は、自らが逆境に立たされた時に、へこたれてしまわないようにと自らを奮い立たせようとして使う言葉でもある。“大丈夫、ぜったい大丈夫、あなた(自分)なら乗り越えられる”と言い聞かせようとしているのだ。長らく筆者はこの言葉に何の違和感も感じることはなかった。

この言葉は、“今、目の前にあるこの困難な状況は、神様が与えた試練なのだと受け止めていこうとする考え方で、それゆえ、それは決して越えられないモノなんかではなくて、絶対越えられるモノなのだ”ととらえる。だから、それを信じて「がんばって取り組んでいけよ」という願いが込められている究極の応援言葉だ。この困難な状況は神様が与えてくれた試練で、しかも乗り越えられるようにと神様が調整しているのだからね、ということなのだ。神様って、なんと慈悲深くて思いやりのある存在なんだろう。

筆者は神様を日頃から身近に感じて生活しているのだが(仏様も同様に)、ある時、ふと考え込んでしまった。はたして神様は私たちに試練などいうものを与えるものなのだろうかと。神様が与えてくれるのは御利益だ。試練なんかを与えるのだろうか。筆者が神様に手を合わせる時、どうかこの私に試練を与えてくださいと祈るという発想は筆者にはない。たとえ試練を与えてくださいと願ったところで、だけど私が越えられる程度の試練で頼みます、などという都合の良い願いごとなのである。だったらいっそのこと、試練なんか与えずに、夢のような良いことばかりを与えてくださいと祈りたくなる。

「苦しいときの神頼み」という言葉がある。この言葉ほど強い願いが込められている言葉は他にはないのではないかと考えている。多くの人は、この言葉が浮かんでいるとき、神様に強く祈っているはずだ。あらためて、筆者はこの言葉について、神様の力を信じ切っている証拠だと感じざるを得ないのだ。いつだって私たちは「神頼み」だったのではないだろうか。たしかに努力はする。しかしその結果について人知は及ばない。そもそも努力できる環境(天変地異がないとか)が整えられていること自体、すでに自分に与えられている。試練があろうとなかろうと、今日一日、当たり前の生活を当たり前のように送れるかどうかだって、最後は神頼みなのだ。たしかにこの言葉に込められた願いは、今あるこの苦しみから自分を救ってほしい、解放してほしいという願いの言葉だ。ならば、神様は安寧を与えてくれるだけで、わざわざ試練を与えるわけがないと考えるのだ。

そもそも、神様は私たちを救ってくれるのだ。神様はどんなときも私たちを見捨てることはないと思うのだ。むしろ見捨てるのは私たちの方ではなかったか。「神は我を見放した」と言うけれど、むしろ「見放した」のは私たちの方で、最後まで信じ切れなかっただけにすぎず、勝手に見限っただけにすぎないと思うのだ。

「信じる者は救われる」という言葉を大切にしたいなぁ。

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